【W杯事件簿】トロフィー盗難・戦争・殺人…歴史に刻まれた衝撃の5大事件

W杯豆知識

W杯の歴史は、名勝負だけでは語れない。トロフィーが盗まれ、予選が戦争の引き金になり、試合中に警察がピッチへ乗り込んできた。92年分の記録を掘り返すと、スポーツの枠をはるかに超えた「事件」が次々と出てくる。衝撃度が高い5つの出来事を、徹底的に深掘りした。

事件①:【1966年】ジュール・リメ杯、盗まれる——そして犬が見つけた

1966年3月20日、ロンドンのウェストミンスター・セントラル・ホールで切手展示会「Stampex」が開催されていた。同年のW杯を3ヶ月後に控えたジュール・リメ杯(当時のW杯トロフィー)がその目玉展示として一般公開され、24時間体制で警備がつけられていた。ところが日曜の礼拝時間帯、警備員が巡回を怠った隙を突かれた。午後12時10分に戻った警備員が見たのは、外された南京錠と空のケースだった。

翌日、FAの会長のもとに脅迫状が届いた。1万5,000ポンドの身代金とともに、トロフィーの一部が同封されていた。警察はすぐさま囮捜査に動き、偽の紙幣を詰めたスーツケースを持って交渉に現れたエドワード・ベッチリーという男を逮捕した。だが彼は「自分は仲介者にすぎない」と主張し、真の首謀者は闇の中へ消えた。

発見したのは、まさかの犬だった。事件から7日後の3月27日、ロンドン南部の路上を散歩中だった荷役労働者デビッド・コーベットが、愛犬のコリー雑種「ピクルス」の異変に気づいた。駐車した車の前輪近くの茂みを盛んに嗅ぎ回るピクルスが掘り出したのは、新聞紙に包まれ糸で縛られた包み——中にはトロフィーが入っていた。

ピクルスは一躍英雄となり、ドッグフード1年分を贈られ、映画にも出演した。それでも翌1967年、猫を追いかけた末にリードが木の枝に絡まり、窒息死するという悲しい最期を遂げた。

無事回収されたジュール・リメ杯は1966年大会で使用され、1970年に3度目の優勝を果たしたブラジルへ永久譲渡された。ところが1983年、ブラジルで再び盗難に遭い、溶かされたとみられており現在も行方不明のままだ。現在の大会で使われているのは1974年から導入された別のトロフィーである。真犯人が判明したのは実に50年以上後の2018年のこと。ロンドンのギャング、シドニー・クグラーとその弟が「スリルを味わいたかった」という動機で犯行に及んでいたことが明らかになった。

事件②:【1962年】試合中に警察が乱入——「サンティアゴの戦い」

1962年チリ大会のグループリーグ、チリ対イタリア。この試合には、キックオフ前から「炎上」の火種があった。大会直前、イタリア人記者2名がチリの首都サンティアゴを「電話も通じず、売春と貧困とアルコール中毒にまみれた後進国の僻地」と酷評する記事を書き、W杯の開催地として「純粋な狂気」とまで断じた。チリ国民の反イタリア感情は、試合前から沸点を超えていた。

試合は開始12秒で最初のファウルが発生し、そこから完全に崩壊していく。前半8分、イタリアのフェリーニが退場命令を受けたが退場を拒否。すると武装した警察官がピッチに乱入し、力ずくで連行するという前代未聞の事態が起きた。前半38〜40分頃にはチリのサンチェスがイタリアのマスキオの顔面に左フックを見舞い鼻骨を骨折させたが、主審は見逃した。続けてサンチェスがダヴィドを平手打ちすると、今度はダヴィドが報復の飛び蹴りで退場。警察が再びピッチに乗り込んだ。試合を通じた警察の介入は計4回に及び、唾吐きや肘打ちが繰り返された末にチリが2-0で勝利した。

試合後、イタリア代表は警察に守られながら逃げるようにスタジアムを後にした。ローマのチリ領事館には暴動を防ぐために軍が配備される事態となった。

しかしこの「最悪の試合」が、思わぬ遺産を残した。試合を裁いた英国人主審ケン・アストンは、言葉の通じない多国籍の選手を言葉で統制することの限界を痛感した。その後ロンドンで信号機を見た際にひらめき、「イエローカード」と「レッドカード」の制度を考案。1970年大会から正式採用された。史上最悪の乱闘試合が、サッカーを守るルールを生んだのだ。

事件③:【1969年】W杯予選が戦争を起こした——「サッカー戦争」

スポーツの試合が実際の戦争の引き金になった——そんな出来事が本当に起きた。1969年の北中米W杯予選、ホンジュラス対エルサルバドルの3連戦がそれだ。

背景には深刻な社会問題があった。エルサルバドルは人口過密と土地不足が極限に達しており、約30万人の農民が隣国ホンジュラスへ移住していた。しかしホンジュラスの軍事政権は国内の不満のはけ口として移民を標的にし、「土地改革法」を悪用してエルサルバドル人から土地を奪い強制追放を始めた。両国の緊張が爆発寸前に達したところへ、W杯予選がやってきた。

第1戦はホンジュラスの開催。ホンジュラムのサポーターがエルサルバドル代表のホテルを一晩中騒音で包囲し、ホンジュラスが1-0で勝利した。敗戦のショックを受けたエルサルバドルの18歳の少女が拳銃で自殺し、軍事政権はこの少女を「殉教者」として政治的に利用した。第2戦はエルサルバドルの開催。今度はエルサルバドルの群衆がホンジュラス代表のホテルに死んだネズミを投げ込む報復に出て、ホンジュラス代表は装甲車でスタジアムへ護送された。エルサルバドルが3-0で勝利すると、ホンジュラム人サポーターが暴行を受け死者も出た。第3戦はメキシコでのプレーオフ。試合前日、エルサルバドルは「ジェノサイド」を理由に国交断絶を宣言し、延長戦の末3-2で勝利した。

予選突破から4日後の1969年7月14日、エルサルバドル軍が国境を越えて侵攻を開始した。米州機構(OAS)が介入し、わずか約100時間(4日間)で停戦が成立したが、その間に双方で約2,000〜6,000人が死亡、1万2,000人以上が負傷、最大13万人の難民が発生した。W杯予選が引き金となって正規軍同士が戦争に突入した事例は、後にも先にもこれだけだ。

事件④:【1974〜1994年】ドーピング・追放・射殺——W杯を揺るがした選手スキャンダル

W杯の舞台でも、選手がピッチ外でその名を刻んだ事件がある。

W杯史上初のドーピング摘発は1974年大会のハイチ代表、エルンスト・ジャン=ジョゼフだ。興奮剤フェンメトラジンの陽性反応が出た直後、激怒したハイチの軍事政権の役人にホテルで暴行を受け、そのまま強制送還された。スキャンダルより「帰国後に何が待ち受けるか」に選手が恐怖した事実の方が、当時の政治状況を如実に表している。1978年大会ではスコットランド代表のウィリー・ジョンストンがペルー戦後に刺激薬フェンカムファミンの陽性反応を示した。本人は「花粉症の薬を飲んだだけ」と主張したが、スコットランドサッカー協会は即座に強制帰国を命じ、代表から永久追放した。1994年大会ではディエゴ・マラドーナもギリシャ戦後にエフェドリンの陽性反応が出て大会途中で追放されている。

しかしこのなかで最も重い結末を迎えたのは、コロンビア代表DFアンドレス・エスコバルの話だ。ピッチ外の暴力や薬物とは無縁の、「サッカー界の紳士」と呼ばれた選手が、一度のオウンゴールで命を落とした。

1994年大会、コロンビアはW杯前に下馬評を覆し続けた強豪として注目を集めていた。ところがグループリーグのアメリカ戦、エスコバルが相手のクロスに触れてしまい、自らのゴールに押し込んだ。コロンビアは1-2で敗れてグループ敗退。帰国後の7月2日早朝、エスコバルはメデジンのナイトクラブ前で犯罪カルテルの用心棒に銃撃され、6発の銃弾を受けて死亡した。25歳だった。犯人は引き金を引くたびに実況アナウンサーを真似て「ゴール!」と叫んでいたという。

この事件の背景には、当時のコロンビアサッカー界の闇がある。1990年代のコロンビア代表は、パブロ・エスコバル率いるメデジン・カルテルをはじめとする麻薬組織の資金洗浄の温床となっており、代表チーム自体がマフィアの賭博やプライドの対象として私物化されていた。試合結果が死活問題に直結する構造のなかで、アンドレス・エスコバルのオウンゴールは許されない「失態」とみなされた。犯人のウンベルト・ムニョスは懲役43年の判決を受けたが、模範囚としてわずか11年で釈放され、国内外で大きな批判を浴びた。

事件⑤:【1990〜2018年】イングランドとPKの「呪い」——科学が迷信を打ち破るまで

サッカーの母国イングランドとPK戦の相性は、「呪い」と表現するほかない歴史を持つ。

1990年大会の準決勝、対西ドイツ。スチュアート・ピアースとクリス・ワドルがPKを外し3-4で敗北した。ガスコインが泣き崩れた試合として記憶に残るこの一戦が、「イングランドとPK」という因縁の始まりだった。1998年大会ではベスト16でアルゼンチンと対戦。インスとバッティが外し、またも3-4で散った。2006年大会では準々決勝でポルトガルに対峙し、ランパード・ジェラード・キャラガーの3人が一度も枠に入れられないまま1-3で完敗した。

イングランドW杯PK戦の記録

1990年 準決勝 対西ドイツ 3-4で敗北(ピアース・ワドル失敗)
1998年 ベスト16 対アルゼンチン 3-4で敗北(インス・バッティ失敗)
2006年 準々決勝 対ポルトガル 1-3で敗北(ランパード・ジェラード・キャラガー失敗)
2018年 ベスト16 対コロンビア 4-3で勝利(W杯史上初のPK勝利)

歴代監督は「PKは宝くじのようなもの」と半ば諦めていた。だが研究者たちは、イングランドの失敗に明確なパターンを見つけていた。主審のホイッスルから助走開始までの反応時間が平均0.28秒——世界のどのチームよりも早い。これは技術の問題ではなく、「一刻も早くこの苦しい状況から解放されたい」という極限のプレッシャーが生む生存本能的な逃避行動だ。急いで蹴ることでパニック状態のまま精度が落ち、さらに不安が高まると無意識にGKに視線が引き寄せられ、正面に蹴り込んでしまう悪循環に陥る。

転機を作ったのは、1990年大会でPKを外した当事者だった。ガレス・サウスゲートは1996年欧州選手権でもPKを外し、イングランドを敗退に追い込んだ「負の経験」を持つ。そのトラウマを抱えたまま2016年に代表監督に就任した彼は、スポーツ心理学者ピッパ・グランジ博士を招き入れ、PK戦を「運」から「コントロール可能なスキル」へと再定義した。

具体的な変化は3点だった。ホイッスルが鳴ってもすぐに蹴らず、あえて数秒待って深呼吸する「意図的な遅延」。ペナルティスポットから戻った選手を境界線でハグして迎える「バディ制度」。肩を組んで一列に並ぶのをやめ、腕を下ろした「オープンアーム」の姿勢で待つ「立ち位置の変更」。どれも地味に見えるが、パニックの連鎖を断ち切るには十分だった。

なお1990年に外したピアースは、1996年欧州選手権でPKに自ら名乗り出て成功させ、個人としてのリベンジを果たしている。「外した選手が蹴り直す」という執念は、サウスゲートの改革よりずっと前から、イングランド選手の中にあった。

そして2018年ロシア大会、コロンビア戦。イングランドはW杯史上初のPK戦勝利を収め、28年越しに呪いを断ち切った。ただし翌2021年のユーロ決勝ではイタリアにPK負けし、2024年のユーロでもスペインに敗れている。科学が迷信を打ち破ったのは本当だが、イングランドとPK戦の物語は、まだ終わっていない。

おわりに

トロフィーの盗難が真犯人判明まで50年かかり、最悪の乱闘試合がイエローカードを生み、W杯予選が本物の戦争を引き起こした。失敗や混乱が次のルールを作り、歴史を動かす——それがW杯という大会の、もう一つの顔だ。2026年大会が何を刻むかは、始まってみないとわからない。

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